研究ノート

塩崎太伸

ひとりの哲学者が撮った建築写真を5時間ながめてみて

 

編集者の長島明夫さんの発案で、自身も写真を撮っている若手建築家の大村高広さんといっしょに、多木浩二さんが一時期に撮った建築写真について考える会を開いた。

そのいきさつはここでは省略しますが、実に5時間におよぶ時間を長島さんのご自邸で過ごした。

長島さんはいつもシビアで物を見る態度が揺るがない方で、わたしはいつも背筋を伸ばされる側なのですが、その長島さんがこの長さの座談映像をカットも編集もせずにそのまま公開するというのだから、きっとそれで良いのだと思う。

けれど、とてものんびりと、だらだらと、(わたしはボソボソと)話しつづけている映像なので、聞く方は辛いのではないかとわたしは心配になってしまうのです。

 

なので、一応の補助線をここに、わたしの覚えている範囲で少しだけ残しておきます。

おとといの夜に終電近辺まで話して、昨日の夜にYouTubeでライブ公開され(その公開の時間わたしはたまたま、知人アーティストの個展レセプションに参加していてほとんど見ることができず)、そして今日この文章を書こうとしているので、忘れていることばもあるかもしれません。

 

重要なところは、最初に長島さんが、アマチュアの目線で多木写真を眺めようと宣言したことに尽きると思う。デカルト哲学書を読んだ多木浩二が、物事にこんなに素手で立ち向かうのかと驚き、多木さん自身もあらゆる物事にアマチュアの目線で向かい合った。だからわたし達も多木さんの写真を同じように、ただそこにある写真として見ようではないかと。

だからわたしも、リラックスして背中を丸めて「わからないなー」とかいいながら長々と考えながら話していた。映像を観ている人はきっと、「わかっている人が集まっているのではなかったのか!」とあきれるかもしれない。けれど徐々に、三者三様に多木写真をつぎのように読みといていたと思う。

 

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長島さんはアマチュアリズムの話から、写真と言葉の並走について、そして他の写真家の写真との比べを題材に「建築と写真家の相性」の話へと展開した。

 

大村さんはプロヴォークへの興味から「主体と対象の在/不在」の話を起点として、「建築に撮らされている写真」という不思議な状態について、さらにそこから、「それでは写真を選ぶという行為はどういうことなのか」と疑問を投げかけた。

 

ではわたしはどうだったかというと、

「多木さんは写真のどこを見ているのか、多木自身の眼の焦点が揺蕩っているようだなあ」という単純な感想から、固定カメラの長回し動画のような写真、スチール写真のような写真と、類推の重ね

いわゆる建築写真の「空間を撮る」という言い回し

「物としての空間」から「関係としての空間」への建築家側のシフトという時代背景の中で、多木さんは「関係」を撮ろうとしていたのかなという話(今ことばにしてみると当然出てきそうな考えなのに、だいぶ時間がかかった末に)

にたどり着きました。

だから、「撮りにくい」と言っていた多木さんの写真をみながら、それらは物のエッジや質感をそこにある他のものとバランスを取るようにしていて、「他のいろいろとの関係がちょうど良いところ」を探しながら撮っているようだという感想を得たことになります。そのちょうどよさが見つからない感じが撮りにくさに繋がっていたのではないか。

その「関係の空間写真」への比喩に「関係の能力」を指摘したギブソンアフォーダンスという言葉が適していそうな予感がして、「アフォーダンス的撮影」という言い方を口からこぼしたところまでが5時間の成果だった気がする。

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座談映像を観てくださる方にはなんとも優しくない方法かもしれないけれど、物を見て考えて批評するときの長島さんの空気を感じるには、5時間というそのままの長さが確かに良いのかもしれない。

(長島さんが映像の目次(タイムスタンプ付き)をTwitterであげてくださっているので、それを使ってフォローしてもらえたら良いかと思います。)

 

 

 ↓長島さんのYouTubeチャンネル

https://www.youtube.com/user/richeamateur

 

 ↓当日のTwitter告知

個人雑誌『建築と日常』 on Twitter: "【今夜】本日19:00からのオンライントーク「多木浩二と建築写真──三人寄れば文殊の知恵」、白熱のあまり5時間を超える収録になりましたが、下記のとおり、途中休憩を挟んでノーカットで配信します。(24:21頃終了予定)
https://t.co/Kyc5ceC9H9… https://t.co/DVetqSkC72"