研究ノート

塩崎太伸

母なる空間─六角鬼丈自邸《クレバスの家》

文・塩崎太伸  初出:新建築住宅特集, no.335, 2014.3

 

 

 

秘匿なクレバス

六角自邸・《クレバス》は、中央線沿いの閑静な住宅地のただでさえ奥まった旗竿敷地の中で、手前に建つ母屋の、さらに奥にひっそりとたたずんでいる。道路からはその姿をほとんど見ることができず、樹木に守られるように置かれた住宅の中に《クレバス》は胚胎しているかのようである。この《クレバス》はどこかそうした「秘匿さ」をもちあわせていた。不思議なもので、「秘匿な」という言葉をあたまに付けただけで、このクレバスという言葉から実にざわざわと落ち着かない、それでいてどこか心安らぐ感情をもよおしてしまう。私は、この空間に身を置いた時この住宅はふたつの眺め方をしておかないとならないのだと思った。ひとつは60年代の終わりにできているというこの空間の意味的な部分で、六角氏の知的創造としてのクレバスである。そしてもうひとつはこの空間の感覚的な部分で、六角氏の情念の空間としてのクレバスだ。そしてそれら双方に共通していたのは、先の秘匿な感覚だった。

 

建築の解体──知的創造としてのクレバス

この住宅が竣工したのは1967年で、60年代といえば建築界では都市論が盛んに議論され、丹下健三の「東京計画1960」をはじめ多くの都市プロジェクトが生まれた時代である。磯崎アトリエに席を置きながら若干26、7才の六角氏が自身と妻のための居住空間として設計したのがこの住宅である。師の思想を横目に見ながら、おそらく六角氏もそれまでの建築を否定したところで建築を成立させようとしていたに違いない。

それまで信じられてきた形式から外れた建築をつくり上げる。一見してでき上がったその空間について、果たして「できた」といっていいのか。信じられるのは自身の知性と感性のみとなる。そうした方法には大きな勇気が必要であっただろう。彼はこの自邸の後、およそ建築と無関係な諸処の事物を建築空間に混入することで建築を完成させてきた。風水の方位盤(石黒邸*1)、文字(金邸*2)、根付き丸太(塚田邸*3)、幾何学(石河邸*4)、岩(塚田邸2*5)……こうして並べてみるとそれらが分野も水準も実にバラバラであることが分かる。偶然に選ばれたようにも見えるこれら個々の事物は、綿密に住宅との距離を取っている。予期せぬ異物同士の衝突は魅力的だ。六角自邸の中の鋭く切り裂かれた亀裂の空間《クレバス》をこうした一連の異物の起点としてとらえることがまずはできるだろう。

きっかけは六角氏自身がいうように、《クレバス》の敷地を挟み込む既存母屋の角度と、対面の敷地境界線の角度がわずかにずれていた事によって生まれた歪みだったのかもしれない。しかしその歪みに設計者が見たのは、いまだ建築界に胚胎していなかった異物だったのではないか。そう眺めてみた時にこの鋭い亀裂の空間が秘匿なものとして、突然私の前に立ち現れた。すべての異物はここから産み落とされたようにすら感じた。

 

解体から胚胎へ──アドホッキズムの空間

C・ジェンクスは、ある要素の代わりに本来関連のないものが代用されたような混合体に着目し、そうした混合されたものや混合する行為をアドホッキストと呼んだ。六角氏は日本のアドホッキスト作家第1号であったかもしれない。《クレバス》から5年後となる1973年のジェンクスの著書『アドホッキズム』からは、つまるところ地球上のすべては混合物で、そもそもまったく新しいものなどないというマニュフェストが感じられる。

現在私たちが建築をつくる時によりどころとすることは何だろうか。建築にはほとんど完成したといってしまった方がよい概念や形式がいくつかある。たとえば慣習として私たちが利用しているnLDKという生活空間の数え方や家型という勾配を付き合わせた屋根の形式、それらを用いつつずらして使用するか、新しい形式を発見するかは大きい違いである。後者が革命を目指すのに対し、前者は知的な批判精神をよりどころとする。

ところで、この《クレバス》の異様なまでの形態を支えているのは、実にオーソドックスな住宅計画であることは特筆に値する。つまりその異物以外の部分があっけらかんと普通なのである。このことは、切れ味の鋭いこのクレバスの空間を一旦私たちに慣習化された吹抜けという言葉で見つめ直してみるとよく分かる。1階部分の動線とは区別して吹き抜けに階段を配し、階段上の2階から下階を見下ろすこの住宅のプランニングは、トポロジカルな配列としてはいたって優等生的に優れたコンパクトモダンリビングである。そしてそのことによって一層私たちの前に異物が浮かび上がってくるのだ。この住宅では非常に知的に、ずらしと混合という操作がなされて、機能主義的な空間や大量生産住宅が否定されている。

一般に六角氏の建築では、異物が「挿入」されたと表現され評価されることが多いように思うが、私が感じたのは異物がただ混入するというよりは、その異物が以前からそこにあったかのように存在している感覚だった。六角氏は最も正統に師の磯崎氏の流れを汲む建築家であると思うが、まさに文字通り「父を殺し母を犯」し、さらに孕ませたアドホック建築を世に送り出した。

 

人間の自邸──母なる空間

実は最初は少し怖かった。強面の六角氏(実際はとても優しかったけれど)だけでなく、ジキルハイドなんて言葉を繰り出すその文章も。けれど、クレバスの空間に入ったとたんに私がもっていたそうした失礼な印象は払拭されていた。建築空間というものは不思議なもので建築家の人となりが大なり小なりあらわれる。だから建築空間に身を置くときに五感で順番に空間を感じてみようと考えたりする。さすがに味覚は難しいけれど、視覚・触覚・聴覚と味わって、そして設計者の思いに身を馳せる。それは嗅覚だろうか。この空間に入ったときにもとてもよく匂った。それは強面のそれではなく、心安らぐ優しい匂いだった。

この空間は強烈なパースペクティブをもち、さらに上下移動を伴うから、身体感覚に訴える。六角氏もその体験を書き留めているし、実際に空間のスケールも相まってなかなか体験したことのない「落ち着かなさ」を感じた。非常に動的な空間である。しかしそれよりもむしろ私は、階段を下りて1階のアトリエの床に座り込んだ時に、これほど鋭い鋭角をもった空間に身を置きながらもどこか包まれた感覚を覚えたのが印象的であった。それは近くにありながらも触れられない何かしらで守られ、包まれているような感覚である。かつて住まいはそうした空間であったのではないか、私たちはここにいたのではないかという気さえだんだんとしてくる。母体のようなと詩的な比喩をもちいていいものか分からないが、これは確かに六角氏の自邸であるのだけれど、いつしか人間が失いかけていた住処に求める感覚が備えられた、人間のための自邸ともいえるものを六角氏が夢想しつくり出したのではないか。きっとここでは人間に空間を取り戻すことが試みられたのではないだろうか。そしてそれが母なる空間として、知的にも感覚的にもここに産み落とされたのではないか。そんな創造を嗅ぐ体験だった。

いまこうした強烈な空間で建築を成立させる試みは息をひそめている。ただ、それが人間が希求する空間であるのならば、ある時突然噴出し、このクレバスの空間の意味が再確認されるのではないだろうか。

 

 

 

*1 八卦ハウス(別称)、1970年竣工

*2 1973年竣工

*3 樹根混住器(別称)、1980年竣工

*4 空環周住器(別称)、1983年竣工

*5 1984年竣工